「令和」はどこから来た?

新元号の「令和」の出典は、下の日経の記事では万葉集だとされています。


出典は日本の古典「万葉集」とした。中国古典(漢籍)ではなく日本の古典から採ったのは確認できる限り初めて。

令和は万葉集巻五、梅花の歌三十二首の序文、「初春の令月にして気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭(らん)は珮(はい)後の香を薫らす」から引用した。


万葉集は7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂されたとされる歌集です。上の記事のように、万葉集に「令和」という文言が書かれているのではなく、「初春令月、気淑風和」という文から2つの漢字をひろって組み合わせたものです。ところが、論壇.netには、以下のように書かれています。


「令和」の出典が実は漢詩からも求められるらしい…。『帰田賦』張衡 (87-139)

「於是仲春令月 時和気清 原隰鬱茂 百草滋栄」(是に於いて 仲春の令月 時は和し気は清む 原隰し鬱茂し 百草 滋栄す)


この詩の全文はWikiでもみれます。確かに、「初春令月、気淑風和」と「於是仲春令月 時和気清」はよく似ています。7世紀後半から8世紀後半の万葉の編者なら500年前の漢詩を知っていて影響を受けている可能性は大です。

また、「黄帝内経」も前漢の時代に書かれた中国最古の医学書ですが、これには、鍼の刺し方の一節として「知迎知隨.氣可令和」(迎を知り、隨を知りて氣和せしむべし)と「令和」そのものが書かれています。

また、「令和」を考案したとされる中西進氏は著書『万葉集における古代朝鮮』で次のように語っているそうです(記事をみる)。


万葉集を出発せしめたものが、古代朝鮮からの衝撃力であった。あの白村江の戦いがなければ、万葉集はなかったであろう。白村江の戦いで大敗を喫した百済の高官たちは、倭に亡命。その結果、百済の文化を倭が引き継ぎ万葉集が登場した。


中西氏は、山上億良、額田王という万葉集の中心的な歌人は朝鮮半島からの「渡来人」であるとしています。このように、万葉集は、中国と朝鮮半島の文化の強い影響を受けて倭人が作った最初の文学作品です。純粋に日本的な元号を望むのなら「ひらがな」にするしかないと思います。可愛いかも。

「黄帝内経」の「終始第九 法野」にある「令和」

コメント

タイトルとURLをコピーしました