The disposable academic: Why doing a PhD is often a waste of time
以下は、記事の抜粋です。
ほとんどの国でPhD(博士号)はアカデミアで職を得るための基本要件である。しかし、博士号をとるための要件は、国、大学、分野によって大きく異なる。
ある者は生活費を支給され、ある者は自分で支払わなければならない。ある者は研究だけに従事し、またある者は講義や試験を課せられ、時には学部学生の教育も要求される。学位論文の厚さも分野によって異なり、博士号を授与される年齢も20台前半から40台まで多様である。
これらの多様な博士課程学生に共通することは「不満」である。ある者は彼らの仕事を「奴隷的労働(salave labour)」とよぶ。1週間に7日、1日に10時間働き、賃金は低く、将来は不安というのが普通だ。
このような「不満」は昔からあるが、法律、ビジネス、医学などを除く「研究する博士」を作るシステムに問題がある。それは、博士号の供給過剰だと思われる。
ほとんどの博士課程は、学生をアカデミアで働くために訓練するようデザインされているが、そのような仕事の数と博士号の数はまったく相関がない。
博士の過剰生産
1970年以前は、世界の博士号の約半分がアメリカで授与された、その後アメリカの博士号は年間64,000にまで倍増したが、メキシコ、ポルトガル、イタリア、スロバキア、日本などの国々では博士生産が急速に増大したため、2006年のアメリカの博士号授与数が世界で占める率は12%にまで下落した。
しかし、大学は、博士課程学生が安価で質の良い使い捨ての労働者であることに気づき始めた。学生が多ければ多いほど、研究成果も増える。より安価に大学教育カリキュラムを増やすことができる国もある。Yale大学では、教授を雇う約5分の1の費用で博士課程学生に教育をさせている。
実際、アメリカでは2005年から2009年の間に約100、000人の博士号を作ったが、教授職は16,000しか増えていない。むしろ、博士課程学生に学部教育を担当させることで、教授職を減らすことができる。このような事情で、急速に発展しているブラジルと中国を除いて、博士は世界中で過剰生産されている。
需要と供給について
研究においても事情はほとんど同じだ。近年、研究の大半は博士課程学生と、ある学生が「アカデミアの恥部」と呼んだ「ポスドク」が行っている。ポスドクも供給過剰である。彼らは建設労働者と同程度の給料で働いている。ポスドクの増加によりますますアカデミアの正規職への就職が難しくなっており、分野によっては5年間のポスドクを経て正規職へ就くのがあたり前になっている。
これらの低賃金労働者の増加は、大学や国の研究力をブーストしてくれるのだが、彼らは常に失職の不安と戦わなければならない。このためアメリカでは、「博士課程学生教師」の労働組合などもできたが、広く認められるまでには至っていない。
イギリスやアメリカでは、上記の低賃金と将来の仕事の少なさが、外国人の博士課程学生の増加に反映している。今では博士課程学生の約半分が外国人である。貧しい状況に良く耐え、安価で、優秀な外国人労働者の供給は、さらなる賃金の下落を誘導する。
脱落者も多く、アメリカでは博士課程入学後10年以内に学位を授与される者の率は57%である。脱落者の能力が低いわけではなく、様々な失望が彼らを脱落へと導く。
博士課程を修了しても職探しは容易ではない。博士課程は、あまりに学ぶことが専門的で、彼らの指導者もアカデミアを離れる学生の将来について無関心である。
ある調査によると、学位を取得して5年以内に定職を得られない率は、スロバキアでは60%以上、チェコ、ドイツ、スペインでは45%以上だった。
プレミアは非常に少ない
イギリスでは、大学を終了していない人の給与と比べて、大学卒の給与は14%、博士号取得者の給与は26%高い。しかし、修士修了者の給与も23%高く、博士号をとっても3%しか増えない。
多くの博士課程学生は、研究が好きだからやっていると言い、勉強そのものが目的だと言う。ある調査では、イギリスの博士課程の約3分の1が学生を続けるため、あるいは就活を避けるために進学したことを認めたそうだ。博士課程では、それなりの生活資金が比較的簡単に得られる。このようなぬるま湯的環境のためか、過剰な教育を受けた若者は、不満が多く、非生産的で仕事を止める傾向が強い。
大学とその教員の利益と学生の利益は別物であってwin-winではない。大学に残る優秀な学生が多ければ多いほど大学教員にとっては都合が良い。ポスドクは研究資金をつれてくるし、指導者の論文も増える。だから、教員は優秀な学生を誘って、博士課程学生に育てようとする。しかし、修了後のことまでは考えてくれないことが多い。一流大学が博士課程学生を減らすような「バース・コントロール」をしても、その下のランクの大学が取って代わるだけだろう。
高尚な趣味
博士課程に進学する多くの学生は、高校や大学などでは優秀だと評価され、将来を活躍を期待されている。新しく研究の世界に飛び込んだ彼らは、博士課程というシステムが他者の利益のためにできていて、ハードワークしても賢くても成功するには不十分で、むしろ博士課程をやめて他のことをした方が良いだろうなどとは到底認めないだろう。
誰かが「使い捨ての大学研究者」についての博士学位論文を書くべきだ。
このジ・エコノミストの記事は、サイエンス・コミュニケーション・ニュースNo.379 2011年1月3日号 vol.1に榎木さんが以下のように書かれていたので読んでみました。
「12月16日の記事ですが、最近知りました。世界中で博士余りが起きているとのこと。語られることは、日本でもおなじみのことで、この現象が決して日本だけの問題ではないことが分かります。必読です。」
本当にブラジルと中国が例外かどうかわかりませんが、この記事を読んで世界中似たような状況であることが良くわかりました。
この記事の内容は私が博士課程に進学を希望する学生に話している内容にかなり近いと思ったので、和訳して紹介しました。このような博士号取得者を取り巻く厳しい状況をよく理解した上で、将来設計ができる人、あるいは「人生を棒に振っても良い」という人が博士課程に入ってきて欲しいと考えています。
上の記事の3つ目の図。他の2つをみれば意味がわかります。
コメント
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博士課程修了者は企業が喜ばないとも聞きました 単に予算仕分けとかの問題ではなく
これまでの多年の構造そのものに問題があるように思いますね
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医学部の大学院博士課程に入学した、時給1500円のパート主婦です。なんで?いまごろと入試の面接官にもきかれました。答えがありませんが。高尚な趣味というようなものではないのですが。いまは苦労してます。ただのパートの主婦の方がきらくだったかも?まあ、短い人生なにを目的に働き何を目的に生きるかでしょうかね?