逝去した三笠宮が語ったことと書いたこと

逝去した三笠宮が語っていた歴史修正主義批判! 日本軍の南京での行為を「虐殺以外の何物でもない」と

以下は、記事の抜粋です。できるだけ、事実と三笠宮の言葉だけを抜き出しています。


三笠宮崇仁親王が、10月27日、心不全により逝去した。享年100歳だった。

1915年生まれの親王は、陸軍士官学校に進み、軍人となり、日中戦争時の1943年1月から1年間、参謀として中国・南京に派遣された。このとき崇仁親王は「支那派遣軍総司令部」で「支那事変に対する日本人としての内省」という文書を書いた。

“南京大虐殺はなかった”という論についてどう思うか聞かれ、このように述べている。 「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体なんだったのかという疑義に駆られました」(読売新聞社「This is 読売」94年8月号)

さらに、自身の南京での従軍経験としてこうも述べている。「また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう」

1956年の著書『帝王と墓と民衆』(光文社)に付した「わが思い出の記」のなかでも、南京に配属された当時を振り返り、こう記している。 〈わたしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実態に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいつかない結果を招いてしまった〉 〈わたしがここで言いたいのは、聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである

1952年の「婦人公論」(中央公論社)2月号に掲載された「皇族と自由」と題した聞き書きのなかで、崇仁親王は、昭和天皇の地方巡幸の際に警官が万歳しない人に対して叱りつけたという話を受けて、「これでは少しも人間と人間との感情が流れてきません。こんなとき号令をかけられた人がなぜ抗議しないのでしょう」「同じ人間同しなのですからハダカとハダカでぶつかり合ってほしい」としたうえで、「これが民主主義の基礎であることはいうまでもありません」と語っている。

1966年の「女性自身」(光文社)のインタビューではこう述べている。 「太平洋戦争が終わったときには、もうこれで地球上から悲惨な戦争はいっさいなくなったのだと思いましたが、現状をみると、まことにあさはかな考えだったことがわかります。  どんな大義名分をつけても、しょせん戦争は殺人です。人を殺すことは最大の罪悪です。戦争放棄を明記した新憲法の精神は、いつまでも大切にしなければなりません」


恥ずかしながら、逝去されてその生前の様子が報道されるまで、三笠宮がこのような言葉を残していることを知りませんでした。

今の若手皇族が歴史学ではなく生物学などを専攻しているのは、この辺りにも理由があるのでしょうか?

コメント

  1. pe-t より:

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    元上級将校として、こうした真摯な発言をされている方は世界的にも稀です。それも、一国の王族としては唯一の例でしょう。東京大空襲を指揮して、後に日本国から叙勲されたカーチス・ルメイなどは、戦後も一切反省することはありませんでしたし、服部卓四郎らの陸軍将校の戦後の行動も同様でしたね。

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