この文章は、日本学術振興会のホームページにある「私と科研費」というサイトに掲載されています。
「『私と科研費』は、科研費の広報活動の一環として、これまで科研費によって研究を進められてきた方々や現在研究を進められている方々の科研費に関する意見や期待などを掲載するため、平成21年1月に新設したものです。毎月1名の方に原稿を執筆していただいています。」と書かれているのですが、この岸本美緒氏の文章は、以下に抜粋したようにとても興味深いものです。
自分の研究にとって科研費がどうしても必要であると感じたことは、正直なところ、ほとんどない。
運営費交付金の削減に伴って大学の財政難は進行し、科研費はそれを補う役割を担わされつつある。2008年以後、私が連続して科研費に応募しているのも、そのような諸般の事情に押されてのことである。さらに、このような状況のもとで、科研費の取得額が研究者としての能力と同一視されて人事に影響するような傾向も生まれている。科研費に応募しない研究者は次第に肩身が狭くなっており、あらゆる研究者に科研費取得の圧力がかかっている。
しかし、科研費を取らなくても研究の質が変わらないとすれば、科研費に応募しないことは、財政節約の見地からいって、推奨されこそすれ、非難される謂れはないはずである。個々の大学から見れば間接経費の減少を招くことになろうが、日本全体の学術という観点からいえば、より必要なところに資金を回せるのである。節約に寄与する人が非難されるというのは、どこか間違っていないだろうか。
本当の「競争」は科研費の額においてではなく、むしろ研究成果においてなされるべきなのである。このような「節約」論は、時代遅れに見えるかもしれないが、国民の負託を受けた大事なお金である科研費をいかにして有効に使うかという点については、素朴な節約の論理に立ち戻って考えてみることも必要であろう。
まったく同感です。彼女が定年間際の文化系の研究者で、学振や文科省から睨まれてもそれほど恐くない状況であるこことを考慮しても、とても勇気のある発言だと思います。
実験系の研究室の場合、岸本氏の「節約」説はあてはまらないですが、既に名声を得た研究者1人に1億円を支給するよりも、50人に200万円を支給する方が、はるかに若手の育成や将来の大発見に直結すると思います。
研究者が、高インパクトファクター雑誌への掲載と高額研究資金獲得の呪縛から一日も早く解放されることを祈ります。
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