以下は、岩田健太郎氏が4月14日にFacebookで発信したメッセージの全文です。Facebookをされていない方のために紹介します。
安倍首相が7自治体の緊急事態宣言を出したとき、「これはロックダウンではない」と述べている。
各メディアもその解釈を追随した。「改正新型インフルエンザ対策特別措置法の緊急事態宣言は政府が対象区域を示し、具体的な措置は都道府県知事が行う。知事は同法45条1項に基づき外出自粛が要請できるが、海外と異なり無許可の外出に罰則を科すような強制力はない。通勤や通院、食料の買い出しといった暮らしに欠かせない目的であれば自粛を求められない」(日本経済新聞4月6日)。
しかし、これは間違いだ。詭弁、といってもよい。
ロックダウンは「概念」である。具体的にはある地域の内外の移動を止め、その地域内での外出を止めるのが「ざっくりとした」ロックダウンの概念だ。なぜ、そんなことをするのか。前者は感染の他地域への拡大を防止するためであり、後者は地域内での感染者の増加を防ぐためだ。
感染症は感染経路を遮断すれば流行は抑え込める。感染者を見つけ、その濃厚接触者をトレースし、診断し、隔離するという「クラスター対策」も感染者と非感染者を分断することで感染経路を遮断するために行う。が、これはクラスターが小規模だったり少数だった場合は有効だが、大規模な感染の広がりで「後ろから追っかける」ことでおいつけなくなると無効になる。作戦変更が必要となるわけだが、感染者を後ろから追いかけるのではなく、「全てを感染者という前提で」扱うのがロックダウン、というわけだ。
緊急事態宣言は東京を始めとする感染拡大地域からさらに別の場所での感染の拡大を阻止し、さらには地域内での流行を抑え込むためにある。大事なのは外に出ないこと、仮に、やむをえず外に出ても距離を保って感染経路を遮断することだ。マスクに全く意味がないとはいえないかもしれないが、マスクの効果は前2者よりも圧倒的に小さく、3の次、4の次の戦略だ。
要するに、緊急事態宣言とは、ロックダウンという「概念」を用いて感染症を封じ込めるというミッションを達成するために日本が行いうる最大限の「手段」なのである。間違っても、「目的」ではない。
国際的にもロックダウンに一律の定義はない。各国でロックダウンのあり方は違うし、同じ国でもロックダウンのあり方は変化し続ける。今朝のBBCによると、スペインやイタリアはロックダウンを緩めるそうだ。感染拡大がスローダウンしているからだ。一方、フランスは更に厳しいロックダウンに逆戻りしている。ロックダウンは動的概念だ。
繰り返すがロックダウンは「概念」であり、硬直的なものではない。「緊急事態宣言はロックダウンではない」が詭弁なのもそのためだ。
よって、政府が出すべきメッセージはそのミッションに合致したものではならなかった。「外に出るな」「家にいろ」「遠くに行くな」「やむを得ず外に出るときは距離を保て」「それもかなわないときはマスクも許容される」である。その「手段」としての緊急事態宣言である。緊急事態宣言自体には強制力はないが、ロックダウンという「概念」の達成のために、それを行っているのだ、というメッセージはもっと強く出せたはずだ。
しかし、メッセージはうまく出せなかった。結局、別の大臣が休業要請は見送ってみたりして、通勤ラッシュはまだ続いている。マスクはあくまでもサブなのに、あたかも主であるかのようなほのめかしをするから、人と人との距離は十分に保てていない。「3密」などという概念を持ち出し、あたかも夜の外出だけが悪いかのような「ほのめかし」をするから、朝や昼ならいいのだろう、3密じゃなきゃいいのだろう、という印象を与える。「メッセージ」とそういう印象を与えないために行うのだ。強制力がないからこそ、メッセージは最高級のものにすべきだったのに、おそらくは関係各氏の「あれやこれやの事情」で骨抜きになって、グダグダなメッセージになってしまった。メッセージは一貫して同じミッションに向かうべきなのに、「人によって言うことが違う」わけだから、伝わるわけはないのだ。
「一貫したメッセージ」が出せず、ハーモナイゼーションができないところが問題だ。例えば、当初から専門家会議は「軽症者は受診せず、自宅で待機」といい続けていた。それは「軽症のコロナを診断する意味は小さいし、入院は不要なんだよ」というメッセージだったはずだ(そうはっきり言えばよかった)。そして重症になったときだけ入院する。だとすれば、軽症、無症状でPCR陽性のものも入院しなくてよいはずだ。このことは2月くらいからずっと言っている。しかし今もPCR陽性だと入院は強制される。「検査を受けていない」コロナ患者は自宅にいる。一貫性がない。
帰国者の検疫では無症状なのになぜかPCRをやる。陽性になると入院させる。一貫性がないじゃないか、と批判すると「お前は感染症法と検疫法の違いも知らんのか」とわけの分からぬ揚げ足取りをされる。
知らん。ぼくにとっては必要なのは一貫した患者の扱いであり、検疫法で扱った患者と、感染症法で扱った患者の診療の仕方が異なる、というのは関係部署の調整不足とハーモナイゼーションが足りないだけの、失敗した行政だと考える。それを「担当が違うから」と賢しらに言うのは形式主義者の官僚の論理であり、医学医療はそのように扱うべきではない。
ぼくがクルーズ船で背広を着た検疫官と歩いていたとき、隣をF医科大学に搬送されるPCR陽性の集団がいて、検疫官は「いま患者とすれちがっちゃったよ」と言った。この話を紹介したとき、ある役人に「岩田先生、それは患者ではなく感染者ですよ」と鬼の首を取ったように反論されて絶句した。
「患者と感染者の違い」などは厚労省が勝手に決めた基準に過ぎず、国際的には全てCOVID-19であり、そして感染対策上の扱いは同じである。ウイルスを排出する者の横をマスク一枚、背広姿の検疫官が通り過ぎて許される、というレッドとグリーンの無区別こそが問題なのであり、「あなたは感染者と患者の区別がついていない」と揚げ足を取る東大話法は本質よりも形式を重んじているからこそ起こりうる論法なのだ。この危機時にそんな浮ついた議論をしていてはいけない。緊急事態宣言とロックダウンは同じだ、と申し上げているのも「そういう意味」においてである。
もし、幼稚園が感染対策のために休園になるのなら、同じ年齢層で同じリスクをかかえた保育園も同じ処置を取るのがハーモナイゼーションであり、ミッションから逆算した当然の施策である。「幼稚園と保育園は管轄が違うから別扱いですよ」というのは官僚目線の間違った論法だ。繰り返すが、こういう議論の仕方は間違っている。異なった管轄間で共同して、同じメッセージを出すのが正しいやり方だ。
流行が拡大している地域においては、効果的な感染経路の遮断こそが必要だ。繰り返すが、「緊急事態宣言の発動」は目的ではない。手段である。求めるべきは「ロックダウン」なのだ。すべての人達がこの「概念」を共有しないかぎり、結果はだせない。そして、だすべきは結果だけ、なのである。
外国のメディアは小池都知事のやり方を”soft lockdown”と呼んでいます(記事をみる)。必ずしも都市封鎖をしなくても「ロックダウン」と呼んでも良いのでしょう。それにしても、何のために「ロックダウン」が必要なのかを、どの大臣も理解していないように見えます。
西浦氏の「8割減」を勝手に7割に減らすなど、政府のやっていることは、専門家会議を自分たちの意見の権威付けと責任逃れに使っているだけのように思います。
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