加速する国会議員の劣化、いっそクジで選んだほうが 地盤・看板・カバンに左右されないだけマシな議員が生まれるかも

加速する国会議員の劣化、いっそクジで選んだほうが地盤・看板・カバンに左右されないだけマシな議員が生まれるかも
過去に厚生労働大臣や東京都知事を務めた舛添要一氏の記事です。とてもおもしろいので、時間のある方はぜひ元記事をお読みください。以下は、記事の抜粋です。


選挙という仕組みは平和や福祉に貢献しているのだろうか
「政治家の誕生」という視点から日本の政治を考えると、選挙に必要なものとして、「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」という「三バン」が挙げられる。

第一の地盤については、親の地盤を引き継ぐ世襲候補もいれば、全く縁もゆかりもない地に降り立つ落下傘候補もいる。安倍首相のような前者が圧倒的に有利であることは間違いない。地盤のない候補者は、選挙区内をくまなく歩き回り、自ら地盤を築いていくしかない。

第二の看板というのは、いかに顔が売れているかということ、つまり知名度である。この点ではテレビなどでの露出の多いタレント候補に分がある。無党派層を獲得するには、マスメディアを利用して知名度を上げる戦略が有効である。

第三の鞄は、鞄の中身のカネ、つまり選挙資金である。かつて金権政治が批判されたために、カネのかからない選挙を実現させるためのルールが積み重ねられており、一定の得票をあげれば公費で選挙を賄えるようになっているが、供託金も高額である。現実には出費は馬鹿にならず、政党の丸抱えでないかぎり、裕福でないと立候補は難しい。

私は、看板(知名度)のおかげで、地盤もカネもなかったが、当選することができた。それでも、選挙資金を捻出するには苦労したものである。

日本では、戸別訪問が禁止されているので、街宣車による宣伝活動、街頭演説などが中心とならざるをえない。そこで、優秀なウグイス嬢の需要が高まり、高額な日当を支払わないと調達できなくなっている。しかし、公選法で定められた日当の上限がある。ウグイス嬢一人当たり1万5000円である。河井案里陣営は、この2倍の3万円を13人に渡したという疑惑が報じられている。

民主主義のコストとはいえ、選挙を行うために、多額の税金が使われている。選挙ポスター掲示板や投開票作業を見れば、いかに手間とコストがかかっているかが理解できよう。

今年はアメリカで大統領選挙が行われる。アメリカの選挙はカネがかかるし、中傷合戦が展開され、フェイクニューズやサイバー攻撃など何でもありの状況になっている。しかも、世界一の大国のトップに選ばれたのが、トランプのような人物である。トランプ外交で世界が混乱に陥っていることは、最近の中東を見てもよく分かる。

ポピュリズムの弊害を指摘するなら、トランプ現象とともにEU離脱を決めたイギリスの国民投票が代表例として挙げてもいい。また、東ヨーロッパや中南米でも、反移民を掲げる排外主義的な勢力が選挙で勝利している。これらのケースを見ると、選挙という仕組みが人類の平和や繁栄や福祉に貢献しているのだろうかという疑問すらわいてくる。

習近平、プーチンよりも指導者として劣るトランプ
選挙で指導者を選ばない国もある。改革開放を進め、国際社会に統合されつつある中国も、秦の始皇帝以来このかた民衆の選挙で皇帝(現代は共産党最高指導者)を選んだことはない。

ロシアでは、建前は選挙で指導者を選ぶことになっているが、実際にはプーチンによる専制政治が続いており、現代版のツァー(ロシア皇帝)体制である。2024年に任期満了を迎えるプーチン大統領は、その後も権力を維持するための準備を進めている。

トランプ、習近平、プーチンの三人を比べると、指導者として誰が優れているかを判断するのは難しい。しかし、内外情勢に関する知識、行動の予測可能性、官僚機構の掌握という観点からは、トランプが最も劣っていることは否めないであろう。独裁制や専制よりも民主主義が生み出すリーダーのほうが出来が悪いのなら、体制としての優位を誇ることはできない。日本でも国会議員の劣化が止まらない。

衆愚政治、ここに極まれり
そこで、選挙そのものを止めて籤引きにするという案も考えられる。司法の分野では、抽選で選ばれる裁判員による裁判が行われている。裁判員は性別、年齢、職業など雑多な構成であり、辞退することも可能であるが、予想以上に上手くいっている。

国会議員もまた、籤引きで選んだ方が、弊害が少ないような気がする。籤引き制度導入論は暴論ではあるが、そう言いたくなるほど民主主義の問題点が露呈している昨今である。国会議員だけが問題ではなく、彼らを選ぶ有権者にも大きな問題があり、抽選でいつ議員に選ばれるか分からないという緊張感があれば、市井の人々も少しは教養を高める努力をするようになるのではないか。

日本のテレビ番組の質を危惧して、1957年に大宅壮一は「一億総白痴論」を展開したが、それは今でも、というより今の方がもっと通用すると言っても過言ではない。衆愚政治、ここに極まれりである。


このようなおもしろい文章を書く人が、厚生労働大臣や東京都知事になっても、変わらない日本の政治を考えると、逆に国会議員の劣化がどんなに進んでも関係ないのかなとも思います。

それにしても、残念なことに、平均的な社会人よりも人格的に優れていると感じるヒトに会うことはほとんどありません。「落ちこぼれて市会議員」というようなコースもあるのかというのが実感です。

記事を読むまでは、政治家を「クジで選ぶ」のはとんでもないことのように思いましたが、裁判員制度が上手く行っているという話を出されると、なるほどと思ってしまいました。「衆愚政治、ここに極まれり」なのかもしれません。

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