とある「外国人労働者」の悲劇 未来なき職場に品格なし

とある「外国人労働者」の悲劇 未来なき職場に品格なし

小田嶋隆氏のコラム。以下は抜粋です。


今回は、朝青龍をめぐる一連の出来事を、一歩引いた視点から見つめ直してみたい。

思うに、この度の事件を、ドルゴルスレン・ダグワドルジという一人の人間の資質に帰してしまう態度は、安易であるのみならず、卑怯だ。でなくても、飽きた。平凡すぎる。

外国人労働者の権益と待遇。彼らの心的負担と暴発。そして日本文化の独自性と普遍性。その閉鎖性と因循。こういうことについてもっと議論が起きないといけない。

品格は、そうした議論が決着した後に、見る者と見られる者が対等の立場で語り合うべき話題だ。不特定多数の人間が特定の誰かについて評定したり落第点をつけたりできるものでもない。いずれにせよ、品格について語る者は品格を失う。いま語っている私も含めて。

現状、大相撲は「いいとこ取り」をしている。ある場面では、「文化」だと言い、別の局面では、「神事」を自称し、また別の立場では「スポーツ」である旨を主張している。

外国人の扱いについても同断。日本相撲協会は、現場の人材難を外国人労働者を招くことで解消している。たとえば、現在幕の内優勝は、24場所連続で外国人力士が獲得している。24場所。丸々4年間だ。

現場を支えているのが外国人である一方で、首脳部には日本人しかいない。というのも、外国人は親方株を取得できない(←必然的に理事にもなれないし、引退後は協会にも残れない)決まりになっているからだ。

結局、大相撲の世界は、入り口では外国人に門戸を開放しておきながら、内部は開放していないのだ。と、必然的に外国人は使い捨てということになる。土俵を開放した以上、部屋も開放するのがスジではないのだろうか。

自分の子供に相撲をやらせようと考える大人もほぼ死滅した。で、われわれは、自分たちがしなくなった相撲という仕事を、アウトソーシングしている。もう少し別の言い方をするなら、われわれは、自分たちの国技を外国人の派遣労働者に丸投げしているのだ。

20代の後半の3年間ほど、私は、派遣労働者だった。ラジオ局で働く派遣ディレクター、というのが私の立場だった。おだてられても、優遇されても、未来の無い職場で品格を保つことはできない。

結局、私は、三十歳になる手前で現場を退いた。今回のドルジと同じように。退職は正解だったと思っている。もしあのままラジオの周辺にいたら、ひがみっぽいイヤな中年男になっていた気がする。

ドルジには、30年後に今回のことを振り返って、「あの時辞めたのは正解だったな」と思えるような後半生を送ってほしい。

品格なきコラムニストに言われても、まったく嬉しくないとは思うけど。


神戸大学での博士号授与式に参加したことがありますが、医学を除く理系では、授与者のほとんどは外国人留学生でした。

一方で、大相撲の親方に相当する教授ポストの多くは外国人には閉ざされています。「土俵を開放した以上、部屋も開放するのがスジではないのだろうか。」という主張は、大学にもあてはまるような気がします。

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