日垣隆のオフィシャルサイト「ガッキィファイター」
6月8日の「緊急コメント「足利幼女連続誘拐殺人事件」菅家さん釈放へ」を読みました。そこに以下のようなコメントがありました。
少しだけ皆様のお時間をいただき、13年前の私のレポートをお読みいただければと思います。
(下のURLをクリックしてみてください)
http://www.gfighter.com/images/shop/19DNA.pdf
私にとって最もインパクトの強かった部分を以下に引用します(一部改変・省略)
逮捕
さて、科警研の鑑定書によれば、ティッシュ(菅家さんが出したゴミ袋から捜査員によって回収された)と(被害者の)半袖下着の精液斑ともに、ABO式血液型がB型、ルイス式はLE(a-b+)分泌型、MCT118型についてのDNA型鑑定では16― 26 型であった、という。当時はまさにDNA型鑑定といえば葵の御紋であったのだ。「この方法で、判定をまちがう確率は一兆分の一とも言われている」などと報道されたこともあった。
さてこうして、科警研がDNA型での「一致」を認めた鑑定書を作成し終えるのは九一年十一月二十五日である。栃木県警本部は、菅家さんに事情聴取する段取りを十二月一日に設定する。もちろん、地元の新聞社(および全国紙の支局)は知るよしもない。
しかし十二月一日(捜査本部が菅家さん宅に向かう当日の朝)には、読売新聞の一面トップに「幼女殺害/容疑者浮かぶ/45歳の元運転手/DNA鑑定で一致」、朝日新聞は社会面トップで「足利市の保育園女児殺し/重要参考人/近く聴取/毛髪の遺伝子ほぼ一致/市内の45歳男性」、毎日新聞は「元運転手、きょうにも聴取/現場に残された資料/DNA鑑定で一致」と大々的に報じた。
これを見て驚いたのは、地元の下野新聞と栃木新聞と、完全に抜かれた産経新聞や共同通信その他と、そして菅家さん宅に向かおうとしていた捜査員であった。警察庁がDNA型鑑定機器導入のために重ねる大蔵折衝が通るかどうかの、まさに瀬戸際であってみれば、十二月一日付全国紙へのリークは実に大きな意味をもった。
全国紙を見て百人近い報道陣が詰めかけ、十二月一日の足利署は異様な雰囲気に包まれた。今か今かと待ち構える報道陣を階下に、自白調書の作成が急がれた。
橋本文夫警部から菅家さんは肘でなぐられ、髪の毛を引っ張られて「馬鹿面しているな」と罵倒されたという。「なぜ死体にお前の精液があったのだ、本当のことをいえ」と十五時間も繰り返され、おびえきった菅家さんは、深夜には最初の自白調書に捺印した。そうすれば眠らせてくれるという約束だった(菅家さんによる)。
翌二日に逮捕。四日にはティッシュを押収した警部補や自白調書を執筆した警部ら八人が県警本部長から表彰されている。二十一日に宇都宮地検は菅家さんを起訴、二十六日にはDNA型鑑定機器導入費用が復活折衝で満額認可された。
菅家さんはまた、七九年の万弥ちゃん殺害事件と八四年の有美ちゃん殺害事件も「自供」し、二十四日には万弥ちゃん事件で再逮捕される(万弥ちゃん事件で菅家さんは翌九二年一月十五日に処分保留となり、有美ちゃん事件と合わせて九三年二月二十六日に不起訴となった。あの一連の「自供」はいったい何だったのだろう)。
菅家さんが逮捕された当日の朝刊には、「否認突き崩した科学の力」(下野新聞)、「一筋の毛髪決め手」(読売新聞)、「DNA鑑定切り札に」(毎日新聞)、「DNA鑑定が決め手」(産経新聞)、翌日も「スゴ腕DNA鑑定」(朝日新聞)と、絶賛のオンパレードだった。
足利署に連行され「自供」を強いられたその日曜日は、職場の同僚だった保母さんの結婚披露宴に、菅家さんは参列する予定だった。父親はその二週間後に心労のため急逝する。
上のレポートから13年、ようやく菅家さんの無罪が認められようとしています。予算獲得や昇進などの動機で鑑定書や調書を捏造するということがあるのですね。リークに飛びついたマスコミが絶賛して、我々も「事件が片付いて良かった」と当時は思っていたのでしょう。悲しいことですが、どこかわれわれの世界と似ているような気がします。
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