橿原市にある「神武天皇陵」は124年前の文久3年(1863)に新しく築造されたものです

私よりもずっと日本史に詳しい友人が、奈良県橿原市の「神武天皇陵」が他の古墳と同じように実在の天皇の墓だと思っていたので、記事を2つ紹介します。

捏造・変形された天皇陵
以下は、記事の抜粋です。


今の神武陵が造られたのは、わずか124年前の文久3年(1863)のことである。当時、畝傍山麓の丸山、ミサンザイ、塚山の三つの候補地が挙がったが山陵奉行相談役谷森善臣の意見が重んじられ、神武陵はミサンザイに治定された。

修築工事は七ヶ月にわたって行われ、水田の中の土檀(神武田)を基盤に方形の二重の丘を築き、裾は石垣でかためられた。鳥居や石燈籠も配され、周囲は柵でかこまれた。

日本書紀によれば、初代神武天皇は、紀元前660年に即位した後、76年間在位し、紀元前585年に127歳で没しています。”神話上の天皇”と割り切ることが妥当かどうかは別にして、日本書紀の神武天皇に関する記事を、そのまま史実として認める方は、まずいないでしょう。

このように、日本書紀は明らかに歴史を偽装しています。その狙いは、わが国の天皇は開闢以来万世一系で、中国の王朝のように短命ではない、と誇ることのようです。

したがって、国風文化が栄えた時代に、偽装した歴史に対応する天皇陵を築き、国威発揚のために、巨大古墳を築造したとしても、かならずしも不自然とは限らないはずです。

幕末の勤皇思想の高まりの中で行われた文久の修築から明治にかけて治定された”急造の天皇陵”についてさえ、分からないことが多々あるのが現実です。


画像で見る「神武天皇陵」でっち上げの経緯
以下は、記事の抜粋です。


現在の「神武天皇陵」は、幕末の文久2(1862)年、恐らく神武の埋葬地ではない「ミサンザイ」に決定された。その後、明治から昭和にかけて、このミサンザイは巨大で荘厳な「天皇陵」に作り変えられていくことになる。まず、この地が神武陵に比定される前はどうだったか。「文久の修築」前の状態を示す絵図が残っている。

当時のミサンザイは、田圃の中の小さな塚に過ぎない。

これが、15,062両(現在の価値に換算して約3億円)をかけた修築を経て、次のような姿に変貌する[4]。囲われた陵域の中央に見える二つの点がミサンザイの塚である。

その後も改変を繰り返され、変貌を続けていく。1879(明治12)年から1907(明治40)年にかけて編纂された官製百科事典「古事類苑」には、次のような陵図が掲載されている。

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大正期になると、八角形に作ったこの墳形が、円墳に変えられた。さらに、周囲の土地を収用し、クロマツなどを植えて、厳粛な雰囲気を醸し出す広大な森が新たに造成された。

このように、ただの田圃だったこの土地を神秘的に見せるための演出が加えられた。天皇や皇族にここを参拝させ、それを報道させるのも演出の一環である。

橿原の「神武天皇陵」を訪れ、そこに悠久の歴史や神秘を感じるなら、あなたは下克上を目指す幕末の下級武士たちがでっち上げたペテンに、いまだに騙され続けていることになる。


こういう記事が自由に書けたり、見れたりすることが大切だと思います。

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