”Everything is a Remix” オリジナルなものは一つもないのだろうか?

カービー・ファーガソン:リミックスを受け入れよう
以下は、動画の説明です。


“Everything is a Remix”の製作者カービー・ファーガソンは、オリジナルなものは一つもないと言います。ボブ・ディランからスティーヴ・ジョブスまで、私たちが賞賛する偉大な製作者たちはみんな、アイディアを借りたり、盗んだり、変形させているのです。


Kirby Ferguson氏は、4つのシリーズからなるドキュメンタリー動画”Everything is a Remix”の製作者として知られています(シリーズをみる)。

上のTEDの講演で氏は、ボブ・ディランが崇拝するウッディ・ガスリーが、「重要なのは歌詞なんだ」 「メロディーには悩むな それは盗め」「低い調子なら高い声で歌え」 「ゆっくりした曲なら速く歌え それで新しい曲になる」と言ったことを紹介しています。

下の動画は”Everything is a Remix”の1つ目の動画です。レッド・ツェッペリンが他人の曲をハードかつ上手に演奏していただけであることが良くわかります。


多くのヒトに心地よいメロディーはおそらく有限個で、少なくともその8割ぐらいはもう使ってしまっていると思います。デザイン画などは音楽よりは可能性は大きいかもしれませんが、昨今のクリエイターがらみの事件をみると、やはり大衆受けするデザインの可能性は有限で、そろそろ行き詰まり始めているように思います。

TEDの講演で、1790年の特許法は、”to promote the progress of unseful arts” 即ち、「役に立つ芸術や技術の進歩を促進する」ために制定されたが、現在では逆に進歩を阻害している例も多いとFerguson氏は話しています。

今なら、ボブ・ディランもレッド・ツェッペリンもスティーブ・ジョブズも、知的財産や著作権の侵害で訴えられて成功しなかったかも知れないと考えると、知的所有権が曖昧だった昔の方が芸術や技術が進歩する環境だったのかもしれません。

“copy, transform, combine”の3つからなる”Remix”は確かに重要だとは思いますが、「本当にそれだけ?」と言われたら、違うような気もします。恐らく、業界によって”Remix”の占める割合や重要性は異なるのでしょう。

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コメント

  1. あ* より:

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    「"Remix"は確かに重要だとは思いますが、『本当にそれだけ?』と言われたら、違う」という点に同感です。
    松平頼暁氏は、ご自分が聞いたことない音を聞きたいから作曲なさるそうで、それを学生オケの人がチャペルで演奏、物理学科の学生も聴きました。畏れ多くもロンドンから遥々極東僻地の日本へお運びいただいた由緒正しいショウジョウバエさまがおわします生物物理学研究室でした。「判らん…」「高尚というのは、こういうことか?」「遠慮しておこう」など様々な反応がありました。それが、プロの演奏家が演奏すると、叙情的に聴こえることもあり「ヒトに心地よい」曲であり得るわけです。
    一方、「多くのヒトに心地よいメロディーはおそらく有限個で、少なくともその8割ぐらいはもう使ってしまっている」と感じると、
    知的財産権に引っかかることがない古典、
    自然界の音や
    人間界に存在する生活音の
    「リミックス」で制作しようというのが素直な発想で、我が家の息子も6歳くらいから自発的にやっています。素直な幼児が考えそうなことで「方法論」止まりの話でしょう。
    オリジナリティとは何か考え直したほうが良いと思われます。
    まずは、「表面的な見かけが似ないように」という意識から離れることが大事ではないでしょうか?
    いわゆる精神障害=PTSDとは何か?…を考え直すと、
    その段階の社会では拒否されて、
    伝わらない何かを一心に伝えようとして結果的に起きるのが(ユングのいう)「個性化」=「自己実現」と考えたほうが合理性があります。
    現在のように、表面的な見かけが似ないようにという意識が先に立って「差別化」を追求すると、結果的に、
    (ユングのいう)「個性化」=「自己実現」は阻害されてしまいます。
    芸術にせよ、科学にせよ、「方法論」止まりで終わらないためには、「差別化」を追求するのはスタート地点として間違っており、
    『高騰…教育…洋の東西…主体性のない知識取得の無意味さ』
    に陥らないことが大事ではないでしょうか。
    http://amba.to/1NaTSiu
    に書きました。
    何れにせよ、結果的に似てしまった場合、使い回しの許可を受ける社会的な手続きがあれば、問題ないでしょう。論文も専門書も、きちんと引用すれば剽窃にはならないのですから。